歎異抄(なぜ、善人よりも悪人なのか)

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

(善人でさえ、浄土へ生まれることができるのだから、ましてや悪人は、なおさら往生できる)

これは『歎異抄』3章の一節です。日本の古典で、もっとも知られる一文でしょう。

誤解に満ちた歎異抄

『歎異抄』は700年ほど前、親鸞聖人の高弟・唯円によって書かれたものといわれています。聖人亡き後、親鸞聖人の仰せと異なることを言いふらす者の出現を嘆き、その誤りを正そうとしたものです。

鴨長明の『方丈記』、『歎異抄』、吉田兼好の『徒然草』の順で、ほぼ60年間隔で成立しています。

これらは三大古文として有名ですが、なかでも『歎異抄』の文体に引き込まれるような魅力があり、全文を暗唱する愛読者のあるのもうなずけます。

今日、『歎異抄』ほど、読者の多い古典は異数ではないでしょうか。その解説書は数知れず、今も新たなものが加え続けられてます。

ところが、この書が世に知られるようになってから100年も経ってはいないのです。

それは500年前、浄土真宗の中興、蓮如上人が、親鸞聖人を誤解させるおそれがあると、「仏縁の浅い人には披見させてはならない」と封印されたからでしょう。

以来、浄土真宗の門徒でさえ警戒し、ほとんど知る人はありませんでしたが、明治の末からある機縁で急速に読み始められ、仏教学者はいうに及ばず、多くの作家や思想家が、こぞって『歎異抄』を論じ始めたのです。

かくて広く一般にも愛読されるようになり、親鸞聖人といえば『歎異抄』、『歎異抄』といえば親鸞聖人といわれ、今では親鸞思想の格好の入門書とされています。

ですが、蓮如上人の訓戒どおり『歎異抄』は、もろ刃の剣です。冒頭にあげた「善人なおもって」の言葉など、皮相の見では悪を勧めているようにも映ってしまいます。

事実、「阿弥陀さまは、悪人大好き仏だから、悪をするほどよいのだ」と吹聴する者が現れ、「親鸞の教えは、悪人製造の教え」と非難されることもありました。

また、東大の名誉教授でさえ『歎異抄』を読み違え、“念仏を称えたら救われると教えたのが親鸞”と教科書に記し、物議をかもしました。

『歎異抄』が広範な読者に迎えられたせいなのか、聖人は日本で最も有名な、歴史上の人物といわれるようになりました。同時にまた、親鸞聖人の教えが誤解される、大きな要因となったのも否定できません。

『歎異抄』は本来、門外不出の秘本であり、読者によっては自他ともに傷つける、カミソリのような書といえます。聖人の教えを正しく理解した上で読まなければ、自損損他、大けがをして臍を噛むことにもなるのです。

とかく『歎異抄』を論じた人は、著者の体験や信条に力点が置かれ、自由奔放に解釈されている、と嘆く識者も少なくはありません。

聖人自作の『教行信証』などをもとにした、『歎異抄』の真意の解明が急がれるゆえんでしょう。

歎異抄の構成

『歎異抄』は18章から構成されています。

1章から10章までは、親鸞聖人の直のお言葉を、そのまま記したものとなっています。

11章から18章は、その聖人の教えをもととして、当時流布していた異説の内容と誤りを、『歎異抄』の著者が正したものです。

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